初夏の嵐

昨夜から南の強風を連れて雨が降っています。横殴りです。瞬時のうちにずぶぬれになる雨です。熊野灘の北東部に位置し南北に狭く東西に長い此の半島は南寄りの風雨に弱い。3月25日に口開けがあったアワビやサザエの海女漁に行く海女も何日も行っていない。休みばっかです。泣く子と海象には勝てんものねえ、、、久方ぶりに図書館に行き本を借りてきて読もうとしています。年齢的にか本を読みかけると眠くなってきて本を掘り出して寝ている自分に気が付く。晴耕雨読の心境やけど、、若い頃はなんでもなかったが、歳とともに体力が弱ってきているかもです。予報では明日からしばらく晴天が続くみたいやで頑張ります。今志摩沖沖合で鰹のにぎあいがあるけど漁は少なめで安いのでこぼす漁師がいます。暇になったら本船も行ってお世話になっている方々に贈ろうと思うけど、、、と雨を見ながら思っています。

春の嵐

7日日曜日の釣りが終わってから春のドックのためにドック場のある浦に回した。8日今にも降りそうなどんよりとした中を上架した。約9か月ぶりのドックで水温が高めに推移している加減か船体の汚れは多かった。清水のㇹースで洗っているうちに雨が降り出し次第に豪雨となって止むことを知らないかのように9日の昼前までよく降った。時折白いものが混じって雪か霰かと思い気や桜の花びらやった。春の嵐です。昔から花に嵐とかいう諺があってなかなか思うようにいかないことのたとえかもです。雨が止んだ後はものすごい風でペンキも何もできずにただ眺めているでけやった。海の上にあってこその船で陸に上がった船は船ではありません。早くすまして下架したいが天候には勝てずです。できるだけ早く下架しますのでよろしくです。でも今年は桜花を例年にないだけ鑑賞した。一番良かったのは終わってから妻と走った田丸城址やなあと思う、また行きたいと思うくらいやけど春の嵐でその見事さもなくなったかもです。、、、、

桜花

昨日三重県にも桜の開花宣言が出た。平年より数日去年より1日遅いと言っていた。地球の温暖化ではない沸騰しているとどこかの国のえらいさんが語っていたが、桜花は遅かった。でも昨日今日の気温で一気に咲くのでしょうねえ。桜花が咲いてくると春が来たことを実感できる。野山に咲き乱れているから、見ると心が和みます。子供のころから幾多の桜花の和歌や歌を聞いて育ってきたから、、小学校の修学旅行があって奈良に行ったら、語り部さんが「青によし奈良の都に咲く花の匂うがごとく今盛りなり」と語っているときに桜吹雪が舞っていて皆が歓声を上げたのを記憶しています。中学生の時は、都落ちする平家一門の御曹司が さざ波や滋賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな、とよんだと習ったし、、浅学菲才のわが身には文才は無く歌の一遍も作れないが桜花を見ているだけでも気持ちよくなる。人並みに花見と行きたいところです。限られた人生の今を楽しんで、、、今日はビンナガマグロのジギングに出た。志摩沖13海里のところに水温17,4度の点滅するとこを探しそこを攻めたら揚がった。お客さんは魚体が大きすぎて重心を下げて時間をかけてあげていた、、、、よかったら、、

彼岸

風がまくっています。未明は南西の風で日出頃からは北西の風が、、、変わり際に霙のようなものを降らして、、海の色も青さが消えて白一色です。離岸堤のテトラポットに当たる波頭は大きな音を立てている。前夜の天気予報を見て中止して人並みの墓参りをした。今日ここまで大過なく過ぎて、体も異常がないのは親や先祖のおかげやと思って、、例年はこの祝日に行けず彼岸入りから明けまでの間の平日にすることが多かったが、、海況には勝てず、、春の彼岸、、太陽は真東から上り真西に沈むと言われています。半世紀前の海技試験の問題にコンパスが故障したときの方位の選定があったのを記憶しています。皆わかっているが書くことはなかなかやったみたいで合格者が少なかった。太陽は段々北から昇るようになって北半球にある日本の国は日照時間も長くなり暖かくなってきます。俗にいう暑さ寒さも彼岸までの諺があります。もう少しの辛抱です。   今志摩沖の水温は17,9度やった。、、よろしくです。

卒業式

子供たちが巣立っていてからは学校行事に無関心でいつが運動会か卒業式か知らなかったけど、この頃のニュ_スで卒業式を知った。あぁその時期かと、、、私の卒業式は半世紀前になります。講堂で卒業式を済ませ教室で談話をして講堂に戻ったら、会食の準備ができていて指定の席に座って華やかな会を見た。先生方のかくし芸や下級生の送る会や歌や踊りなどが、、、私には無二の親友がいた。同じような子沢山の家庭に産したが彼は末っ子で私は中ほどやったから生活環境は違った。彼は欲しいものが買えた。兄や姉が稼いでいたから、、卒業式が終わってから砂浜に出て将来の話をしながら東に向かって歩いた。東隣の布施田地区の境に松林があってその根方で歌を唄いあった。それから、男は漁師女は海女という町であったから友と別々の漁船に乗って海原に向かった。彼は俗にいう7つのぼりで1月7日の生まれで私より3か月ほど遅かったけど体も勇気もあったし行動力が抜きんでいた。食の面も含めて色々助けてもらった。5月頃やったか静岡県の焼津漁港であった時は中国残留孤児やないけど抱き合ったのを覚えている。その彼は冬季のマグロ漁のソロモン諸島で1月7日船が転覆して命を絶った。墓石に刻まれた氏名の下に17歳とあった。、、、時は巡りその松林もなく、墓石の名前もない、、、いつまでもその残像を引きずっている私が悪いのだろうかと今日15日にその跡に行って友の名を呼んだけど砂浜に打ち寄せる波の音に消された。、、、今志摩沖の水温は17,9度、沖合ではビンナガマグロやカツオがにぎあっていてマダイの乗っ込みの気配があります。・、、、よろしくです

東北大震災

伊勢志摩国立公園の前にあるからか、大王崎を東端にして西に延びる南北に短く東西に長い此の半島を前志摩半島とよぶ方もいる。その半島の中央部にある和具地区、昔は和具町であったが合併して志摩町になったのは私が小学生の時やと思う。男は漁師女は海女として栄えた漁師町で,畑や山の成物は俗にいう 桃栗三年柿八年梅は酸い酸い十三年と長きの年がかかるが海に入れば即食になる魚介類があって、猫の額のような土地にしがみつくようなことをせず多くの先達が海に活を求めた。沿岸から近海へそして遠洋へと、、、黒潮の狩人として働いた親父が鹿児島の枕崎から東北の気仙沼から名産が届いたのを記憶しています。あの時代は親の背を見て育ち親と同じ道を歩むのを良しとした時で、その通りにした。初めて入った気仙沼は五里霧中やったけどだんだん慣れて知り合った看護師と結婚をして早半世紀が過ぎ、知り合っときはこの国が発展途上国であって道がぬかるんでいるとこが多かったが段々直されて、経済大国になったらすごく立派になって、、その気仙沼市が東北のあの震災でさんざんになって、、、わが目を疑った。家内と一緒に支援物資を積み行ってから十三年か早いのか遅いのかいろいろやけど、、寄付もしたけど少しやで焼け石に水かもです、、それから今年は能登半島、、大自然のなせることに呆然とするのみです。東北の方、能登の方前に向かって進んでくださるようにお願いします。今志摩沖は水温18度で沖合でビンナガマグロやだいばんのカツオでにぎあっています。、、、よろしくです。

航海灯

法規の灯火形象物のところに船舶は航海灯を日没から日の出までの間付けなければならないと明記してある、到達距離は2海里「約4キロ」右舷に青左舷に赤と船首と船尾にも白灯を。放射冷却で冷えた空の下を航海灯を付けて眼前の布施田水道を走る船がある。  午前3時戸外に出て習性となっている観天望気をした。冴えた未明の空に天空近くに北東七星、南の中天に蠍座が光っていた。目を下げると航海灯を付けた漁業仲間の船が午前4時ころからぼつぼつと漁港の青灯台を右に見て布施田水道を東に走る。きっとビンナガ漁に出ていく船だと思った。昨日の強風の中でも出船し大漁をしてきた船があってその船か、もしくはその情報を聞いた船やと思う。ラジオ深夜便の森田美由紀さんの語りを聞きながらさぁ本船もそろそろ船に行って航海灯を付けやなと思った。 志摩沖の水温は17,8度そろそろマダイの乗っ込みも期待したらいかがでしょうか?。

3月に入った

3月に入った。弥生3月です。子供のてまり歌やったかお手玉の歌やったのか忘れたが、1月行って、2月逃げて、という歌を聞いたことがある。あっという間に過ぎる日々が子供たちのざれ歌になったと思う。例年厳しい2月が高めの気温と低温に悩まされてそれによって着るものも調整しなければならんかったが例年通りの気温で推移してくれますようにと願います。もう梅の花も散ってやがて桜の季節がやってきます。もう少し我慢をしてくださいねえ。春はきっと来ますから、、今日強風と波浪で休んで習性になっている早起きで未明の空の下を伊勢市に走り早朝6時から開店するスーパ銭湯に入った。湯船に入った時はもう明るかったが身を切るような冷たい風を頬に受けながら浪花節をうなった。毎月の朔日にだけの6時開湯やけどそれでも10人くらいは待っていた。時間は余る頬あったので十二分に浸かってきました。  不安定な天候で出船日は少なかったです。、、、よろしくです

御船祭り

鳥羽市松尾町の青野峰山にある正福寺の御船祭りの日で、昨日よりまくって吹く北風をかわしつつ、午前8時妻の運転する車で家をっでた。この国が海国日本島国日本の時は海運や漁業が盛んで、少年の頃に父親に連れられて行ったときはものすごい人出であった。境内は勿論山門付近から山麓まで出店があって、せがんで買ってもらったお菓子を食べながら下山したのを曖昧模糊として記憶しています。漁師や海女それに海運関係者などが多数で、持ち込んだ大漁旗を掲げてもらって鼻高々にしている関係者もいた。平成の後半から起こった黒潮大蛇行によって海流異変や高水温があって海の生態系が変わってきて漁業者は大打撃で、、こんな状態では後継者も生活を維持できなく、親のほうから別な職を探すように話をしているというのを聞いた。そのためか人出も少なく駐車場もがら空きで難なく駐車っできた。 この山ははるかな昔に僧行基が開祖したという。聞いた話やけど、紀伊国屋文左衛門や大黒屋光太夫も海上の安全を祈願して奉納したという、、、当時は山を見て航走る地文航法と天文を見て航走天文航法で気象は自らの体験やったから多くの船員が神信心をした。熊野灘を東航する船は紀伊の山の連なりより一番東にあるこの山を、西航船は三河の山が切れてから一番最初に見るこの山を  ああ志摩の青野峰山やと確信っして走ったんやろな、、この山頂で焚いていた燈明に救われたはなしをいくつか聞いた。、その御船祭りに行って海上安全を祈願してきました。  天候や海況が悪く出船はしておりません。収まれば出船します。よろしくです。

春1番

日本海から南下してくる前線を伴った低気圧に南の高気圧から風を送り、午前6時出船の時は気温が高めで心地よかったけど午前11時ころからは強くなり船が潮に立たず南から吹く風に立ってきて道具がいれずらくなって納竿した。カネヤマ気象台はこの風を春1番とよんだ。立春を過ぎてから吹く南寄りの強風を春1番と言いますがまさにこの風です。毎年吹くが記憶ではここ数年立春からはるか遅れて吹いてもう春1番という気象用語は昔の言葉になったのかなあと思っていたが、、あまり喜ばれないがでもこれが吹かなければ春が来ないと思う、、やがて春、、これで黒潮の大蛇行も収まってまた過去の様になってくれるといいが、、、とにかく吹いてよかった、、