人それぞれ厄日がある。私の厄日は今日9月26日です。熊野灘の北東部に位置し、南北に短く東西に長い此の半島の中央部に近く浜から切り立った崖の上に古色蒼然とした我が家があった。昭和34年9月26日は土曜日であった。台風15号が接近し上陸するとポンコツラジオが放送していた。午前6時ころ家の雨戸を潜り抜けて海を見ようと出た。灰色の雲が南東から東方面から吹き流れて全天を覆うようにすごい速さで雲を流していた。海は猛り声を挙げるように白波をあげて崖にかじりつくようにしていた。ひと回り年上の隣の兄が「よく見ていろよ、お前が学校から帰る頃は家がないど」と、脅かすように語っていた。大体やけど、旧暦の満月ころで朝夕が満潮時であった。風は強かったけど学校に行ったらそのころから豪雨になってきた。1時間目の授業が終わりかけていたこと校内放送で緊急職員会議で先生が教室を離れた。雨と風の音で私語する生徒はいず雨かさが増す校庭を眺めていたら先生が戻り臨時休校になった旨を伝え隣の小学校に兄弟の居るものは連れて帰るように指示された。急ぎ小学校に行き妹と弟を探して、弟を背にして妹にカバンを持たして3人が連なるようにして帰った。母親は普段海人漁に徒どとして他の人と乗り合いで働いていてその船頭が夕方海を見に来て、これはみたこともないような台風や、家がだめやと思ったら我が家の網小屋に避難するようにと助言がありその時はお願いしますと答えた。台風の風は反時計回りに回る。北側の山から降ろす風は厳つく石の上にのしてある我が家の柱を持ち上げて倒そうと、皆の者が体重をかけて押えようとすれど大自然の力に抗いがたく惜しみながら我が家を捨てて網小屋に避難した。母は強かった。家財道具を持ちながら子供たちを抱くようにして横殴りに体に当たる瓦のようなものを避けるのに皆に布団をかぶせて、、我が家の家族が避難して安堵したのもつかの間隣の家族も避難してきて、合わせて三所帯十五 人が南無阿弥陀仏と唱えながら台風が通り過ぎるのを待った。大体やけど、、午後9時過ぎに風も収まり雲もちぎれてその間から月が出て、母親と家を見に行ったら横倒しになっていた。 翌朝網小屋を出て倒壊した家屋の隙間から引き出せるものを引き出し朝食を作り皆で頂きそれから学用品や衣類を出して乾した。この写真が後年作成された 志摩町史の災害のページを飾っている。 丁度思春期のことやったで忘れがたき思い出となっています。乱文乱筆は 飲みながら書いていますでご容赦を、、志摩沖水温27.3度イサキやマダイが上がっています。、、、よろしくです。
